電機学校同窓会見学研修会(深谷市渋沢栄一関連施設)2017.9.30.
平成29年9月30日(土)は晴れ上がった天気に恵まれ、参加者は24名と事務局の佐藤樣の総勢25名で予定通り8時00分に北千住のキャンパス前を出発。
今回の見学研修会は幕末から大正初期にかけて日本の経済発展に尽力をされた渋沢栄一翁(以後 翁と略します)の遺跡と、関係遺跡の見学です。
翁は若くして徳川(当時は一橋)慶喜に認められ2年のオランダ外遊で、永く続いた徳川幕府の鎖国政治が欧米の植民地化される危機を救うべく新政府の一員としても活躍したのですが退官して先進技術の導入、株式会社制度、貿易、等の設立に尽力しその企業は500とも600とも云われています。
これにより日本は先進国と肩を並べるまでになったのですが、ご自分の資産を大きくすることなくひたすら国民、国が繁栄するように活動されたとのことです。
その一つに煉瓦製造がありますが、煉瓦原料の採掘後の地を水田に生まれ変えたり、製造職員に採用して生活面にも配慮したりしたことが住民に云い伝えられています。
翁の活動に協力した尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)・韮塚直次郎(にらづかなおじろう)氏が居られ、韮塚氏は深谷以外でも富岡の製糸工場の煉瓦作りに最適の粘土を近くの畑から見つけ出し、工場建設に貢献していることから、三偉人としてうやまわれています。
最初の見学地はJR深谷駅です。
この駅は東京駅に似ている煉瓦建として知られていますが、東京駅をはじめ日本の官庁街には、深谷産が使われたことを偲んで、10数年前に建て直しされた建造物である。とは観光協会の説明ですが、現地で見ると利用者の便宜と歴史の複雑が感じられる。
記念撮影を済ませると次なる見学は今回の主役、渋澤栄一翁の記念館である。
記念撮影の後、裏庭に設置されている翁の五メートルもの大きな像、これから見ている山々は長野県の浅間山、栃木県の男体山、群馬県の榛名山、赤城山などと説明されると、翁が関係した富岡製糸場の事がぼんやりと想い出される。引き続き館内に翁の活動に関する品、文書などの展示室に案内され詳しく丁寧に説明して頂いた。
バスに戻ると参加者の多くの方々がそろそろ空腹を感じる時刻なのだが、深谷市の重要文化財である、誠之堂(せいしどう)・清風亭(せいふうてい)に移動する。
この建造物は翁の偉業に感謝して喜寿のお祝いに当時の銀行員が資金を出し合って現在の世田谷区に建てられたのだが銀行の移転などの事情から深谷市が譲り受けたとのこと。
煉瓦造りの建物を移すのには大変な苦労があったことを想像出来るが、それを感じさせない仕上がりであった。現在は特別の会議などで使われることも有るとのこと。
懇親会、昼食会場は小山川に架かる橋を徒歩移動となった。車窓から眺める景色とは視野も異なり、綺麗な空気とともに昔は水運の重要地であったと聞かされた。
懇親会では中村博氏(昭和30年卒)の乾杯で始まり、自己紹介や飲み物、食事と和やかに過ごした。
次は翁の論語の先生でもあり義父で協力者の尾高邸に立ち寄り説明を受ける。この周辺の陸稲畑(おかぼばたけ)の下に煉瓦に適した粘土が在った事から採掘後に近くの川から水を引き込み水田として再生した等の説明を受けた。
これまで親切丁寧な説明は全員ボランティアの方で、故郷の偉人に感謝し率先して案内、説明員や清掃の奉仕をしているとのこと。
最後に立ち寄った煉瓦製造施設は市役所職員の説明であったが、懇切丁寧であり質問にも判り易く答えてくださった。
最盛期には6窯あったが時代の流れからこの窯と京都に1窯かあるだけと聞かされた。
残念なのは老朽化していることから炉の中を巡れなかったことである。別棟の展示室では様々な形の煉瓦を見ることが出来、現在ブロックと呼ばれ地境などに使われているコンクリート製品の初期製品とも見られる煉瓦製品も見られた。
見学はこれで終り帰路に向かったが、途中土産物をと云う希望で立ち寄った店舗はなかなかの盛況であったが、なにごともなく帰路につき、18時20分、キャンパス前に到着し解散となった。
文責 小恫a盛